子供の頃、大人ってものは賢いもんだと思っていた。
きっと、自分も大人になれば、少しは賢くなるだろうと、思っていた。
もちろん、大人になっても賢くはなれなかったが、きっともっと年をとれば、年寄りになれば賢い人になれるんじゃないかと、信じた。
しかし、実際に年をとってみると、賢いどころか、若い頃より愚かになってるんじゃないかと、気づくことの方が多い。
時間の流れと人の成長には、ほとんど相関はないようである。
これは人類の歴史を鑑ても同じである。
過去から現在まで、人類が進歩してきたのかと言えば、決してそうではない。かえって昔の方が優れていたのではよいう部分がかなり多い。
紀元前639年、魯の国がひどい旱(ひでり)に襲われた。
魯の君主であった僖公は、巫祝を生贄として焚いて、天に雨乞いしようと考えた。
重臣の臧文仲(ぞうぶんちゅう)が、これを諌めた。
「今、すべきことは旱魃への備えではないでしょうか?
建物を修理し、食を質素にし、無駄を省き、農事に専念し、貧しい人を助けるのです。
そもそも、巫祝には天候を左右する力など無いのです。
もし、彼らの命を、雨を降らせることと引き換えにする位、天が欲しがっているのなら、そもそも生かしてはおかないでしょう。
もし、巫祝に天候を左右する力があるとするなら、彼らを焚けば、恨みをかうことになり、旱はますます激しくなるでしょう」
僖公は、臧文仲の言を納れた。
この年、飢饉にはなったが大きな被害にはいたらなかったという。
臧文仲の思考は合理的かつ論理的である。
大昔にも、こういった思考をする人がいたのである。
ところが、3000年を経た現代になっても、迷信は蔓延り、宗教の名を借りた殺人がいたる所で行われている。
人は、なかなか賢くなれないようである。
出典
新釈漢文大系 春秋左氏伝(一) 347頁
僖公二十一年
夏、大旱。公欲焚巫尫。臧文仲曰。非旱備也。脩城郭、貶食省用、務穡勸分。此其務也。巫尫何爲。天欲殺之、則如勿生。若能爲旱、焚之滋甚。公從之。是歳也、飢而不害。
夏、大旱(たいかん)す。公、巫尫(ふわう)を焚(や)かんと欲す。
臧文仲(ぞうぶんちゅう)曰く。
旱の備へにあらざるなり。城郭を脩(をさ)め、食を貶(おと)し、用を省き、穡(しょく)を務め、分を勸(すす)む。此れ其の務(つとめ)なり。
巫尫(ふわう、)何をかなさん。天、之を殺さんと欲せば、則ち生ずること勿(な)きに如(し)かんや。若し能く旱を爲さば、之を焚かば滋(ますます)甚だしからん、と。
公、之に從ふ。是の歳や、飢ゑて害あらず。