忘坐を逆にした「坐忘」というと、『荘子』内篇大宋師第六にある、孔子と顔囘の有名な話である。
しかし、ここで紹介するのは「忘坐」という話である。
宋の陽里にいた華子という人が、何でも忘れてしまうという病に罹った。
朝のことは夕方には忘れ、夕方のことは次の朝には忘れてしまった。
道では歩くことを忘れ、部屋の中では、「忘坐」つまり坐ることを忘れる始末であった。
先のことも分からないし、過去のことも憶えていなかった。
家族は心配して、手を尽くしたが、治らなかった。
そうこうしている時、魯の学者が自分ならば治療できると売り込んできた。
家族は財産の半分を投げ出して治療を乞い、ようやく華子は完治することが出来た。
ところが、完治するやいなや、華子は大いに怒り、妻を追い出し子供を罰し、戈(ほこ)を持って魯の学者を追いかけた。
結局、華子は捕えられた。
病気が治ったにもかかわらず、どうしてあのような行動を取ったのかを訊ねられた華子は、こう答えた。
私が病んでいた頃は、ゆったりとした心持で天地の存在さえ忘れていた。
ところが、今や全てのことが分かるようになり、ここ数十年の生死や得失・哀楽・好悪がとめどなく湧き上がってきた。
さらに、これから先も、生死・得失・哀楽・好悪が、私の心を乱すだろう。
ほんのわずかな時間でも、以前のように全てを忘れてしまうことは出来ないだろう。
このことを恐れ、怨んで、さきのような行動を取ったのだ、と。
芥川龍之介の『侏儒の言葉』に
「或仕合せ者 彼は誰よりも単純だった」
という一節があるが、何も知らないということが、ある面、とても幸せであることは間違いないだろう。
出典 (明治書院)新釈漢文大系22 『列子』 157~160頁
周穆王第三
宋陽里華子、中年病忘。朝取而夕忘、夕與而朝忘。在塗則忘行、在室則忘坐。今不識先、後不識今。(中略)
魯有儒生、自媒能治之。華子之妻子、以居産之半請其方。(中略)
華子既悟。迺大怒、黜妻罰子、操戈逐儒生。宋人執而問其以。華子曰、曩吾忘、蕩蕩然不覺天地之有無。今頓識、既往數十年來存亡得失、哀樂好惡、擾擾萬緒起矣。吾恐將來之存亡得失、哀樂好惡之亂吾心如此也。須臾之忘、可復得乎。
宋の陽里の華子、中年にして忘を病む。
朝(あした)に取って夕(ゆふべ)に忘れ、夕に與(あた)へて朝に忘る。塗(みち)に在っては則ち行を忘れ、室に在っては則ち坐を忘る。今は先を識らず、後に今を識らず。
(中略)
魯に儒生有り、自ら媒して能く之を治めんという。華子の妻子、居産の半を以て其の方を請ふ。
(中略)
華子既に悟る。迺(すなは)ち大いに怒り、妻を黜(しりぞ)け子を罰し、戈を操って儒生を逐ふ。
宋人執へて其の以(ゆゑ)を問ふ。
華子曰く、曩(さき)に吾の忘るるや、蕩蕩然(たうたうぜん)として天地の有無を覺えざりき。今や頓(とみ)に識り、既往數十年來の存亡・得失、哀樂・好惡、擾擾(ぜうぜう)として萬緒(ばんしょ)起れり。 吾は將來の存亡・得失、哀樂・好惡の吾が心を亂すこと此(かく)の如くならんことを恐る。須臾の忘、復得可けんや、と。