「情けは人のためならず」という言葉があるように、最終的には自分の利益が大切である。
利益が目的であり、人に敬意を払ったり親切にしたりすることは、手段かもしれない。
しかし、手段は大切である。
手段を間違うと、結局、利益を手にすることはできない。
目的は利益であっても、行動の判断基準は手段である。
目的(りえき)を判断基準にしてしまえば、それは禽獣と変わらない。
自分が禽獣になれば、人も禽獣となり、社会は禽獣の社会となる。
これでは、誰一人、利益を得ることはできない。
別に、社会全体のことを考えて行動しなくてもよいだろう。
何が義であり人の道理なのかは、誰もが分かっている。
人間の短い一生の経験で分かっているのではなく、人類の長い歴史の中で、いわばDNAとして伝えられているのだろう。
出典 (明治書院)新釈漢文大系22 『列子』小林信明著 362頁
説符第八
嚴恢曰、所爲問道者、爲富。今得珠亦富矣。安用道。子列子曰、桀紂唯重利而輕道。是以亡。幸哉、余未汝語也。人而無義、唯食而已。是鷄狗也。彊食靡角、勝者爲制、是禽獸也。爲鷄狗禽獸矣、而欲人之尊己、不可得也。人不尊己、則危辱及之矣。
嚴恢(げんくわい)曰く、爲に道を問ふ所の者は、富まんが爲なり。今、珠を得るも亦(また)富む。安(いづ)くんぞ道を用ひん、と。
子列子曰く、桀紂(けつ、ちう、古代の悪君)は唯だ利を重んじて道を輕(かろ)んず。是の以(ゆえ)に亡ぶ。幸なるかな、余(われ)未だ汝に語(つ)げざること。
人にして義を無(な)みせば、唯だ食のみ。是れ鷄狗なり。彊食(きょうしょく)して靡(とも)に角(くら)べ、勝つ者、制を爲すは、是れ禽獸なり。 鷄狗禽獸を爲して、人の己を尊ばんことを欲するも、得(う)可(べ)からざるなり。人、己を尊ばざれば、則ち危辱、之に及ばん。