『列子』醜き者は貴くして、美しき者は賤し

有名な話だと思う。

二人の妾がいて、一人は美人、一人はブスである。

ところが、大切にされているのはブスの方だという。

何故かといえば、美人の方は自分が美人だからと、傲慢になっており、ブスの方は、謙虚にしている。

どんなに美人でも傲慢だとブスに見え、どんなにブスでも謙虚だと綺麗に見える。

だから、ブスの方が大切にされている。

子供の頃に、自慢話をするなと、教えられた。

謙虚であれと、教えられた。

そうすれば、かえって周りが引き立ててくれると、教えられた。

ところが、どうも実際はそうではなかった。

この話も嘘ではないかと、思ったりもした。

しかし、よくよく読んでみると、楊子が弟子達に言っているのは、

「行いが賢で、しかもその賢をひけらかすことが無ければ、どこにいっても愛される」

ということである。

大事なことは、自慢をしないということの前に、自慢できるようなことをやっているかである。

この前提がなく、ただ単に謙虚であろうとするのは、単なる処世術である。

僕が行っていたのは、処世術に過ぎなかった。

処世術と道徳は一見、非常に似ている。気を付けなければならない。

出典 (明治書院)新釈漢文大系22『列子』小林信明著 114頁

黄帝第二 第十六章

楊朱過宋、東之於逆旅、逆旅人、有妾二人。其一人美、其一人惡。惡者貴、而美者賤。楊朱問其故。逆旅小人對曰、其美者自美。吾不知其美也。其惡者自惡。吾不知其惡也。楊子曰、弟子記之。行賢而去自賢之行、安往而不愛哉。

楊朱(ようしゅ)宋を過(よぎ)り、東のかた逆旅(げきりょ)に之(ゆ)く。

逆旅の人、妾二人有り。其の一人は美しく、其の一人は惡(みにく)し。

惡(みにく)き者は貴くして、美しき者は賤し。

楊朱、其の故(ゆゑ)を問ふ。

逆旅の小人(せうし)對へて曰く、其の美しき者は自ら美しとす。吾、其の美しきを知らざるなり。其の惡(みにく)き者は自ら惡(みにく)しとす。吾、其の惡きを知らざるなり、と。

楊子曰く、弟子(ていし)之を記せよ。行、賢にして自ら賢とするの行を去らば、安(いづ)くに往くとして愛せられざらんや、と。 (ほぼ同じ文章が、新釈漢文大系『荘子 下 外篇 山木第二十』547頁にある )