『誰も死なない世界』(ジェイムズ・L.・ハルペリン)

私は、歴史や歴史小説が好きだが、同じくらい、SFが好きである。

歴史とSFは、今ではない時代を対象にしているという点で、とても似ていると思う。

アイザック・アシモフの名著である『銀河帝国の興亡』は、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』にヒントを得たと言われているし、田中芳樹の『銀河英雄伝説』は、三国志や水滸伝を読むと同じような感慨を抱かせてくれる。

そういった数多くのSFの中で、面白いかと聞かれると微妙ではあるが、考えさせられた小説をご紹介したい。

『誰も死なない世界』(ジェイムズ・L.・ハルペリン著、角川文庫)である。

これは、医療や科学技術が進歩し、人類が半永久的な命を得ることが出来た時代を、描いた作品である。

ストーリーは、ここでは紹介しない。

小説のストーリーを紹介するほど、詰まらないことは無いと、思うからである。

考えさせられたのは、「人」とは何か、ということである。

手足を取り替えても、臓器を取り替えても、私は私である。

顔を整形して全く別のものにしても、やはり、私は私である。

私が私であるということは、私の持っている記憶や思考の仕方にあるのであって、身体的な特徴ではない。

つまりは、心こそが私である。

心の作用を行なっているのは、脳である。

ということは、例えば、私ともう一人の誰かがいて、二人の間で脳を入れ替えたならば、身体は全く違ったものになっても、私の脳が入っている身体こそが、私なのであろう。

科学技術が進歩し、人間の脳と同レベルのコンピュータが開発されたとする。

今の私の脳の内容を、全てそのコンピュータに移植したとする。

そのコンピュータに、機械の手足を装着すれば、これはつまりはロボットであり、不死となる。

しかし、それは私なのであろうか。

私であったとしても、「人」と呼べる存在なのであろうか。

アイザック・アシモフに『アイ ロボット』という作品がある。映画化もされたので、ご存知の方も多いであろう。

この作品は、ロボットが最終的に、「人」になるという話である。

不死である存在が、死を手に入れることによって、「人」になる。

人は死を忌み嫌うが、死ぬからこそ、人なのであろうか。

それとも、記憶や思考形式のパッケージが人なのであり、生命とは別なものなのであろうか。

もちろん、誰にも答えは分からないだろう。

しかし、人と言う存在を考える上で、実の示唆に富み、刺激を受けた本である。

ついでながら、商売柄、マーケティングに関する本、経営戦略に関する本、ビジネスに関する様々な本を読んだが、私には「戦略」という考え方が、どうしても理解できなかった。

ところが、前述した田中芳樹の「銀河英雄伝説」を読むことによって、霧が晴れるように、理解できた。

回り道が実は近道ということは、多いと思う。

ビジネスに直結するノウハウや教訓を勉強することも大事かもしれない。

しかし、全く違う分野に関する本や物語を読む方が、ずっと多くの事を与えてくれた、それが私の実感である。

また、若い時は別として、年をとると小説なんか馬鹿らしくて読めない、などという人も多い。

しかし、年をとって柔軟性が失われていくからこそ、発想の転換が必要になるとも、言えるだろう。 たまには、SFなどを読んでみたら如何であろうか。