人には、嫉妬という感情がある。
同期の友人で、いち早く出世した人間を見て、何で、あいつが、と考える。
学歴だって、能力だって、容姿だって、俺と同じようなもんじゃないか、と。
自分の上司などを見て、思うこともあるだろう。
大した違いは無いのに、何故、あいつが上司で俺が部下なんだ、と。
これは企業だけの話ではない。
返って、芸術や芸能、学問の世界の方が、嫉妬心は強いかもしれない。
自分自身と全く違う相手であれば嫉妬の感情は湧かないが、自分と変わらないと思える人間が自分より幸せだと思うと、人は、その理不尽さを嘆くのである。
まして、自分より劣っていると思う人間が脚光を浴びているとなると、自暴自棄めいた気持ちに陥ることもある。
こうなると、真面目に仕事をする気もなくなるし、人生自体が鬱陶しいものに感じられるようになってしまう。
嫉妬という感情は、出来るだけ持たないほうがいい感情である。
北宮子という人が、ある時、西門子という人に、こんなことを言った。
君と私は、同じ一族の出身なのに、世間の人は君の方を尊敬している。
同じような容貌なのに、世間の人は君の方を好いている。
同じようなことを言っているのに、世間の人は君の方が正しいとしている。
同じような行動を取っているのに、世間の人は君の方が誠実だとしている、等々。
私と君に大した違いは無いのに、君は豊かで、おいしいものを食べ、美しい衣服を着て、豪壮な屋敷に住み、出かける時には、素晴らしい車に乗っている。
かたや、私は貧しく、粗末な食事と衣服で、住んでいるのはあばら家で、車も無く歩き回っている。
本来、同じである筈なのに、この違いは何だ。それとも、君は私よりも優れているとでも、思っているのか、と。
この北宮子の難詰に対する、西門子の答えは、あっさりとしたものであった。
西門子は、こう言った。
君と私が、真実、同じであるのかどうか、私には分からない。
ただ、私が何かやるとうまくいくし、君が何かやるとうまくいかない。
これこそが事実だろう。
この事実が示していることは、君と私とは違うということに他ならない。
それなのに、君は、「君と私は同じようなものだ」と言う。
これは、あまりにも厚かましいことではないだろうか、と。
実に、身もふたもない言い方ではあるが、正しい答だと思う。
人はそれぞれが独自の存在であり、誰もが素晴らしい何かを持っている、と言われる。
その通りである。
しかし、裏返せば、人はそれぞれに劣った何かを持っているということである。
同じレベルに見えても、実は何かが違っている筈である。
嫉妬の感情に身を任せるよりは、冷静に違いを見つけた方が、建設的であろう。
そして、もし勝ちたいと思うのであれば、努力すればいいのである。 世間の人に見る目がない、世間の方が間違っている、といくら嘆いても、何も変わるわけではなく、自分が惨めになるだけのことである。 l!=st[e]&&de