組織の下から上を見たとき、役員やナンバー2クラスに、これは酷いなと思われる人物がいたりする。
無闇に威張ったり、威張りはしなくても何の貢献もしなかったりと、誰に聞いても、評判が悪いのである。
にもかかわらず、更迭されることなく高給を得ている。
不思議なのは、このことを、トップが知らないかといえば、そうでもないということである。
何故、このような現象が起こるのかと、以前から疑問を感じていた。
戦国時代、東周の君主が、呂倉(りょそう)という人物を宰相としたという話がある。
ところが、この人は評判が悪く、国人は喜ばなかった。
この呂倉の悪評を、君主はひどく心配し、辞めさせようかとも考えた。
ところが、ある人が、君主に進言した。
「忠臣は、誹り(そしり)は己に在り、誉れは上に在らしめる」と。
つまり、自分が悪者になって君主を立派に見せるのが忠臣である、ということであり、臣下の悪評は、必ずしも悪いことではない、というのである。
そして、『春秋』という歴史を読むと、臣下でありながら君主を殺した記録は100を超える、と指摘し、これらは全て、「大臣の誉められし者」によって行なわれたと、恐ろしいことを述べた。
君主が殺されるのは、評判の良い臣下によってであり、そう考えると、臣下の評判が良いということは、国にとって望ましいことではないということである。
この進言を受けて、東周の君主は、呂倉の更迭を見送った。
組織のトップの立場からすれば、何人か評判の悪い役員がいた方が、その地位は安定し、トップ自身への評価も高まるということであり、これは確かに一つの真実であろう。
考えてみれば、社長に対して部下の役員の悪口を言った場合、機嫌が悪くなるケースには、あまり出くわしたことがない。
かえって、「あの人は素晴らしい」などと、特定の人を褒めちぎると、「いやぁ、そうでもないよ」と嬉しくなさそうな表情を浮かべることがある。
この場合、特に人格的な部分の素晴らしさを述べると、余計に嫌そうな顔をすることが、多いようにも思う。
以前、「部下は上司のある種の無能力は許すが、品性の欠如は許さない」と、書いた。
これを、上司の立場から述べると、
「上司は部下のある程度の品性の欠如は許すが、無能力は許さない」ということになるかもしれない。
仕事のある部分で、部下の方が優れているということは、望ましいことである。
望ましいどころか、今のような時代は、そうであってくれなければ業績を挙げることは、難しい。
しかし、人格や人間性という部分で、部下の方が優れている(自分自身が部下よりも劣っている)と感じるのは、相当に辛い筈である。
結局、人は、自分よりも立派な人間を部下に持とうとは思わない。
企業は社長の器以上にはならないという言葉の意味は、多分、こういうことだろう。
組織の発展を制限するのは、能力や知識、ノウハウではなく、経営者の品性のレベルに他ならないということである