金儲けは果たして善なのか

特にグルメではないが、好きな店と言うものはいくつかある。

向島の蕎麦屋角萬、江戸川の住宅地にある蕎麦の矢打、秋葉原にあるトンカツの丸五、千葉は東金市にあるぐぅラーメン、高田馬場のラーメン店べんてん・・・・・。

こうやって思い出してみると、ある共通点に気づいた。

ほとんどの店が、不便な場所にあるということである。

マーケティング的に考えると、どこも不利な条件である。しかし、それを補って余りあるほど、中身が優れている、だからこそ、多くの客がわざわざその店を目指すのである。

もし、これらの店が、例えば蕎麦の矢打が、江戸川区の車でしか行けないような薄暗い住宅地から、都心のど真ん中に移転したなら、どうなるであろうか。

ほぼ間違いなく、その売上は軽く2倍3倍に達するであろう。

都心の地代家賃を吸収するためには、ある程度の値上げも必要かもしれないが、今でも充分にコストパフォーマンスは高いのであるから、少々の値上げが来客数に影響するとは思えない。

来客が増え、売上が増えれば、店舗の拡張や新規出店も行なわれるだろう。

ビジネス的に考えれば、成功する可能性はかなり高いといわざるを得ない。店の主人は、カリスマ経営者ともてはやされるかもしれない。

しかし、ビジネス的には正解だと思われるこの方法も、違う観点からすると、いかがなものかということになる。

矢打は、家族だけでやっている。

喧嘩もあるかもしれないが、お互いに励ましあい助け合ってやっているのであろう。

しかし、ビジネスともなると、こういったほのぼの感はなくなるかもしれない。

接客についても、ことさら丁寧なわけではないが、気取らずとも笑顔で接してくれて、極めて感じが良いのが、今の矢打である。

しかし、店が大きくなり従業員も雇うようになると、マニュアル的な接客になる可能性は大いにある。

矢打の現在の営業時間は、昼夜合わせて約8時間、そして毎週水曜日と木曜日は定休日である。蕎麦屋で週に二日休む店は聞いたことがない。

これが可能なのも、家族でそれほどの儲けを追求せずにやっているから可能なのであろう。

ビジネスともなると、こうはいかない。今の何倍も儲けることは可能になっても、今以上に自分たちの時間を犠牲にしなければならなくなるだろう。

そして、蕎麦屋にとって最も大事な蕎麦の味である。

ビジネスとしてやれば、とても主人一人でまかなうことはできなくなる。

絶対とは言わないが、味の低下は予想できる。

味の低下は来客数の減少を招き、来客数が減少すれば、コストを吸収するために値上げは必至である。

そして、値上げは商品のコストパフォーマンスを低下し、更なる来客数の減少となる。場合によっては、廃業・倒産もないとはいえない。

こういう風に考えていくと、もっと事業を拡大しよう、もっと利潤を追求しようとすることは、お客にとっても、経営者にとっても最善の策ではないということになる。

企業が蕎麦屋を始めて、矢打のように行列ができるほどの店を作り上げたならば、もっと儲けようとビジネスに走るであろう。

拡大しなくてもいいじゃないか、適度の利益でいいじゃないかとは、企業の生理としては許されないのである。

資本主義は、私欲を肯定することによって成り立ち、だからこそ共産主義を凌駕した。

ただ、昨今の、飽くことなき利潤や企業価値の増大の追及は、どこかで破綻を招く。そして、この数ヶ月、私たちはその破綻を目の当たりにしたということであろう。

若い時には嫌いな言葉であったが、「ほどほど」ということは、やはり大事ではないかと、世の中がこれほどおかしくなってくると、思ってしまう。

また、今の世の中、なんでもかんでもビジネス化しているようであり、それがまた善き事のように言われているが、本当にそうだろうかと、疑問を感じる。

江戸時代は士農工商といわれたが、最近では商商商商の時代である。

官庁(昔でいえば士であろう)も民営化といって商に走り、農も商、工も商である。

これは一つの行過ぎた均質化であり、均質化が行過ぎた社会は閉塞的であり、変化が乏しく、また変化に弱い。

蕎麦屋は、自分のことを蕎麦屋と考えれば、おいしい蕎麦を打つことに精力を注ぎ、商売人と考えれば、一円でも多くの金を儲けることに精力を注ぐであろう。

社会全体が、自分たちのことを商売人と考えていれば、一番偉い人間は、一番金を儲けている人間ということになる。

そこには金による序列と格差が生じ、職業による誇りは失われてしまうだろう。

(もう失われてしまっているかもしれない) 働くことへの価値観を失ってはならないが、働くということは、決して金儲けだけではないということを、私たちは思い出すべきではないだろうか。 i