駐車違反の監視員や、駅前の違法駐輪の管理などの仕事は、実にクレームの多い仕事である。
クレームが多いといっても、多くの場合、その非はルール違反を行なっている側にある。
にもかかわらず、何故、クレームにつながるかといえば、監視員などの態度・言動である。
横柄な態度、居丈高な口調が反感をよぶのである。
では、何故、そのような口調・態度になるかといえば、自分自身が正義の味方になるからである。
相手はルールを破っている悪人であり、悪人に対して丁寧な態度で接する必要はないと、心の中で、思ってしまう。
さらにいけば、その場で悪人を罰しようという気になる。
場合によっては、暴行や傷害といったことにも発展してしまう。
人は、自分自身が正義であると思った途端、とんでもなく酷いことが出来る生き物である。
宗教戦争が、その典型であろう。
中世、キリスト教にとってイスラム教徒は悪魔であり、悪魔に対しては酷い仕打ちをすればするほど、より正しい行為ということになった。
だから、拷問し殺しまくっても、何の良心の呵責も覚えなかったのである。
つい先日の裁判員制度裁判で、検察の求刑通りの判決が出た。
今までの常識からすれば、過酷な内容である。
今までの刑が軽すぎたのではという意見は別にして、一般の人にとって、被告が罪を認めていれば、被告は悪人であり、悪人に対しては厳罰を与えたいという気持ちになるのが、当然である。
「司法を身近に」とはいうが、結局、何故裁判員制度を導入したかといえば、国民一般の厳罰化の要請に応えたというのが、一番の理由であろう。
今回の事件でいえば、検察の15年という求刑に対し、従来の裁判官だけの判決で、15年を言い渡すことは、過去の判例とのからみで出来なかった筈である。
もしやれば、何故今回に限りそれほど刑が重いのかと、各方面から糾弾を浴びたに違いない。
つまりは、司法の一種の責任転嫁である。
ただ、私は国民が司法の場に参加すること自体には、賛成である。
しかし、その場合、有罪無罪の判定を行なうだけで良いのではとおもう。
量刑は、法に則って職業裁判官が決めればいい。
また、裁判官の横に並ばせて、いかにも悪人である被告を糾弾し裁く正義の味方という雰囲気にさせるのも、どうかと思う。
(蛇足ではあるが、裁判というものは人が人を裁く場ではないと、思う。裁くのは「法」である。また、真実を追究する場でもないと、思う。真実が分かると考えるのは傲慢である。だから、冤罪が起こる。裁判員は提出された証拠の範囲で、被告人が法に定められた罪を犯したかどうかの事実認定を行なうのが、その役割の筈である)
要は、アメリカ式の陪審員制度の方が良いと思っている。
ところで、日本の裁判員制度は、小泉元首相の時代に決まったものである。
アメリカの真似をするのが大好きな筈の小泉さんが、アメリカの方式を取り入れなかったのは、やはり、犯罪人に厳罰を与える口実が欲しかった、ということではないかと邪推してしまう。 何はともあれ、政権も変わることだし、是非、制度の見直しを図ってもらいたいと、思う。 ority67