中国全土を支配した王朝は、始皇帝の秦が最初である。
最初の統一王朝であった影響は大きく、シナという言葉、Chinaという言葉は、秦からきている。
秦の前の戦国時代には、燕、斉、趙、魏、韓、楚という大国があったが、秦は、
紀元前230年:韓
紀元前228年:趙
紀元前225年:魏
紀元前223年:楚
紀元前222年:燕
紀元前221年:斉
と、瞬く間に、六国を亡ぼした。
同時期、ヨーロッパでは、ローマとカルタゴが地中海の覇権を争うポエニ戦争をやっていた頃である。
前221年に斉を亡ぼして全国を統一すると、秦王は、始皇帝として即位した。ところが、わずか十五年、前206年には、劉邦や項羽によって秦は滅亡してしまう。
絶頂期から衰亡までの期間が、これほど短い帝国は他にはないであろう。
その理由としてよく言われているのが、皇帝一人に権力が集中していたということである。
秦は、法治国家であったが、皇帝だけは法を超越していた。そして、全てを皇帝が決裁する体制であった。
『史記』によると、
天下之事無小大、皆決於上(天下のこと、小大なく、みな上に決す)
「どんなことでも、全て、上(しょう、始皇帝のこと)が決定した」、とされている。
当然、始皇帝の忙しさは半端ではなく、
上至以衡石量書。日夜有呈。不中呈、不得休息(上、衡石をもって書をはかる。日夜、呈あり、呈にあたらざれば、休息をえず)
「決裁すべき書類ははかりで重さをはかり、一日に処理する重さを決めていた。そして、その決めた重さに至らなければ、休まなかった」、という。
始皇帝は、実に勤勉に仕事をしたのである。
しかし、『史記』を書いた司馬遷は秦を亡ぼした漢の官僚であるから、始皇帝のことを褒めることはない。
貪於権勢至如此(権勢をむさぼること、かくの如くに至る)
と、酷いことを言っている。
何はともあれ、皇帝が優秀でなければ物事が処理されない、それが秦という帝国であった。
ところが、始皇帝の死後、即位したのは、暗愚とされた胡亥(こがい)であった。
これは、宦官の趙高や宰相の李斯(りし)の陰謀による。
始皇帝の遺勅を改竄し、優秀とされていた長子の扶蘇(ふそ)を死に追いやったのである。
暗愚な胡亥が二世皇帝となったため、秦は圧政を行い、民は苦しみ、結局、滅亡したとされている。
しかし、先ほどの司馬遷の始皇帝に対する評価をみれば分かるように、歴史は、亡んだ王朝の次の王朝が作成する。
そして、前王朝の最後の君主は、絶対に悪く書かれるのである。そうでなければ、討滅した大義名分が立たないからである。
実際に『史記』を読んでも、それほど胡亥が暗愚だとは、私には思えない。
問題は、胡亥を擁立した首謀者である趙高である。
擁立による功績によって、趙高は、秦帝国の実権を握った。
ということは、胡亥によってなされたとされている圧政は、実際は、趙高の手によってなされたということである。
趙高は、決して馬鹿ではない。始皇帝の寵臣であり、宦官でありながら学問に優れ、胡亥に、書及び獄律令法を教えたとされている。
ところが、実権を握ってからは滅茶苦茶であった。
最も人口に膾炙しているのが、「馬鹿」の話であろう。
胡亥に鹿を見せ、「馬です」、と趙高が述べた。
胡亥が、「鹿を馬とは、間違っている」として、左右に問うと、左右は趙高を畏れて、ある者は黙し、ある者は「馬です」と言って、趙高におもねったとされている。
この逸話は、胡亥の暗愚さを語っているのではなく、趙高の権勢がいかに大きかったかを示している。
要するに、この時期、秦帝国の実質的な皇帝は、趙高であった。
にもかかわらず、帝国を弱体化させるようなことばかりをしたのは、何故かということである。
『史記』の蒙恬列伝に、趙高は、その名が示す通り、趙の王家の遠縁であると、書かれている。
趙は、冒頭に書いた紀元前228年に、秦によって滅ぼされた趙のことである。
そして、前260年には、長平の戦いにおいて、40万人を超える兵を、これまた秦によって生き埋めにされ殺されている。
年齢的に考えると、趙高の父親も、この戦いで生き埋めにされた可能性は充分にある。ということは、趙高は、秦に対する復讐を行なったのではないか、という解釈は充分に可能であろう。
ここまで書いてネットで調べてみると、やはり世間は広くて、私と同じような意見は、今までにもあるようである。
もちろん、通説にはなっていない。 しかし、確かめようのないことではあるが、趙高が、自分の一族と国のために復讐を果たしたと考えなければ、秦帝国の成立とそのあまりにも早い滅亡を解釈することは出来ないと、私は考えている。