率先垂範の落とし穴

「子どもは親の言うことはきかないが、親のやることは真似する」

などと、よく言われる。

何となくもっともそうな教えなので、そうかなという気にもなるが、よくよく実際を振り返ってみると、正しいとは思えない。

別に、子どもはそんなに親の真似をするわけではない。

親の良い部分は真似ないが、悪い部分は真似るの方が、まだ少量の正しさが含まれている。

しかし、鳶が鷹を生む場合もあれば、その逆もある。

率先垂範という言葉がある。

いわゆる「背中で学ばせる」といった教えである。

昔、JRが国鉄だった頃の話である。

覚えている方も多いと思うが、国鉄のトイレは汚かった。

北陸地方の、ある国鉄の駅、そこのトイレも他と同じように汚かった。

ところが、この駅の駅長は、この状態を改善しようと思った。

しかし、駅員たちにトイレを掃除しろと言っても、反発は目に見えていた。

そこで、彼が考えたのが、率先垂範である。自らが、手本を示そうと考えたのである。

思い立ったら吉日。

次の日から、駅長は黙々とトイレ掃除を行なうようになった。

駅長が思い描いていたストーリーは、以下の通りである。

「この私の姿を見れば、きっと駅員たちは思うだろう。駅長自らがトイレ掃除をやっている。これは私たちも見習わなければならないと。私が何も言わなくても、彼らは自らの意思で手伝うようになるだろう」

しかし、二日経ち、三日経ち、一週間経っても、誰も手伝おうと言い出す者はいなかった。

駅長の描いたストーリーは分からなくもない。

しかし、駅員から駅長を見た時、全く別の景色が、そこには見える。

駅員たちは、駅長のことを、あてつけがましい姑息な人間と思ったのである。

「トイレ掃除が大事であれば、はっきりそう言えばいいじゃないか。それを何も言わず、一人であてつけがましく掃除をしている。誰が、そんな手に乗るものか。それほどトイレ掃除が好きなら、ずっとやってればいい」

これを、率先垂範の落とし穴という。

究極の選択でいえば、「自らは何もせずに、部下に指示命令する上司」と「部下に指示命令はしないが、自らが動く上司」を比べたならば、前者の方がましである。

何故なら、部下に対して指示命令を行い、部下を動かすことこそが、上司としての本業だからである。

率先垂範は大事なことであるが、あくまで部下を動かすための手段の一つであり、それ以上のものではない。

ところが、世の中には率先垂範を好む人間が多い。

(実際にやっているかどうかは、別の問題であるが)

理由としては、人にとやかく言うよりも自分が動く方が立派だといった考え方があるのだろう。

これは、確かに一人の人間の生き方としては立派であるが、上司の取るべき考え方ではない。

中には、指示命令して相手が動くのであれば率先垂範はやらない。動かないから率先垂範するのだという人も、いるだろう。

もし、そうだとするならば、上司は、何から何まで部下と同じように動かなければならなくなる。これでは身が持たないだろう。

しかし、これらはまだ良い上司である。

少なくとも、部下を動かそうとする意思が見えるからである。

世の中には、掃除を含めた雑用を行なうことを自分の任務と勘違いしている上司もいる。

(仕事に雑用といったものは無いといった議論はここでは行なわない)

その言い分は、こうである。

「実際に働いて成果を挙げるのは部下であり、上司である自分は、彼らが働きやすい環境を作ることだ。彼らが嫌がる雑事は自分がやって、彼ら彼女らに頑張って貰いたい」

一見、格好良いようにも思えるが、私は、こういった人は何か誤解しているように感じられて仕方がない。会社としては、掃除をして貰うために管理職としての給与を支払ってはいない筈である。

しかし、こういった人間もまだましで、もっと凄い上司もいる。

何もしないことが一番だと考えている上司である。

「私が口出しすると、それで決まってしまう。何も言わない、何もしない。それが一番、部下たちを自由にして成果をあげる途だ」

などど、言ったりする。

必要ない上司であれば、辞めて貰った方が会社は助かるだろう。

古代中国の皇帝のリーダーシップと、現代社会におけるマネジメントを混同しているのであろう。

コーチングであるとかカウンセリング、そして率先垂範も重要であるが、上司が、まず行なわなければならないことは、きちんとした指示命令である。 実は、多くの部下は、これがないために困っている。 if; color:blac