もう二十数年も前のことである。
当時、私の勤務している会社は池袋のサンシャイン60にあった。
この超高層ビルのすぐ脇には、昔ながらの下町、それも寂れた下町が広がっており、その中に、大勝軒はあった。
いまや、ラーメンを好きな人で、大勝軒を知らない人はいないであろう。一時期の行列はまさに長蛇の列であり、3時間待ちなどということも、ざらであった。
しかし、当時は、昼の一時間で食べることができた。
たまたま大勝軒を見つけ、始めた食べた時には、あまりおいしいとは感じなかった。それまでのラーメンとは、まるで違った食べ物だったからである。
しかし、一週間、二週間と日が経つにつれて何故か恋しくなり、通っているうちに、段々とその素晴らしさが分かってきた。
ある時期、世界の全ての食べ物の中で、私は大勝軒の「もりそば」が最高の食べ物であると、思っていた位である。
夏の休みの土曜日に、短パンTシャツで出かけ、店の前のスチール椅子に座って飲むビール、また、このビールに付いてくるメンマとチャーシューのお通しのおいしさは格別で、その後、汗を垂らしながら食べるラーメンは、日頃のストレスさえも発散させてくれた。
これはもう、ラーメンを食べるというよりも、一つのリクリエーションであった。
私は単なる客の一人であり、店主の山岸さんとは他愛の無い話を数回した位であるが、客に媚びるわけでもなく、かといって有名店の店主にありがちな傲慢さもなく、優しさがしみじみと滲み出てくるようなお人柄であった。
あれから二十数年、大勝軒はどんどんと有名になり、大勝軒だけではなくラーメン自体が大ブームとなった。
今や、ラーメンは日本の国民食である。
行列店、有名店は数え切れず、それぞれが特色を出して、百花繚乱の趣きがある。
こだわりの店などといわれるラーメン屋の中には、スープの出来が納得できない時には、そのスープを捨て、店を開かないという話を聴く。
厳選された材料をおしげもなく使い、最高の味を目指す、などという話もよく聴く。
それは凄いなと、ラーメン好きの一人として、私も数多くの店を訪れた。
しかし、どこに行っても、大勝軒を超える店には出会えなかった。
(もちろん、ラーメンには好き嫌いがあるから、あくまでも私の個人的な感想である)
そんなある日、山岸さんについての、ある記事を目にした。
その記事によると、山岸さんは、満足できないスープを捨ててしまうことに、疑問を感じているという。
スープの素材である肉や魚や野菜などは命であり、その命を元に作られたスープを捨てることは、命に対する感謝を持っていないのではないか、素材に感謝しなくておいしいスープが作れるのであろうかというのである。
私は、なるほどと納得した。
考えてみれば、どんなに厳選された材料を使おうと、ラーメンの材料はどれも似たようなものである。
その似たような材料から、魂消るほど美味しいラーメンが出来上がることもあれば、これならインスタントの方がましではないかと思えるようなラーメンになってしまうこともある。
ラーメンほど、料理人によって味が変る料理はないのではないだろうか。
大勝軒のおいしさは、まさに山岸さんあってのものだったのである。
山岸さんは、長い年月の間、小さな店に寝泊りして朝早くからスープを仕込み、黙々と麺を打ってきた。
変なこだわりをひけらかすこともなかった。
どこにでもあるような普通の材料を、ただ愛情をもって調理して、どこよりも美味しいラーメンを、しかもに安価で私達に提供してくれたのであった。
仕事をするということは、こういうことを云うのであろう。
仕事の価値は、損益計算書や貸借対照表だけに表われるものではないのである。
自分の扱っている商品やサービスに愛情を感じていない商売人やビジネスマン、自分の会社の社員を働く道具としてしか扱っていない経営者には、大勝軒のラーメンを食して、自らを省みることをお勧めしたい。
(ただ、残念なことに山岸さんは既に引退しているので、もう食べることは出来ないが)