既に死語かもしれない。
檻とは、欄檻(欄干)の檻であり、折檻とは、欄干を折ることである。
知っている人は多いと思うが、元々は、下が上を諌める意味である。
前漢成帝の時代に、朱雲という臣が成帝を強く諌め、激怒した成帝は朱雲に死刑を命じた。兵が朱雲を連れ出そうとしたのだが、欄檻に取り付き動こうとしない。
それを無理やりに連れ出そうとしたところ、欄檻が折れたという「漢書」の逸話から、この言葉は生まれた。
命を懸けたこの諫言を尊び、この後、中国の宮殿では造営において、あえて欄檻の一部を欠けさせたという。
「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」というが、中国の皇帝は絶対権力者であり、その危うさを、古代から理解していたのであろう。
「史記」や「春秋左氏伝」を読むと、名臣とは上に対して諫言する臣であり、名君とは下からの諫言をよく聴く君主である。
権力に対しては批判を許さなければ、国(=組織)は成り立っていかないのである。
故に、六韜(りくとう)は、
「忠諫(ちゅうかん)せざるは、わが臣に非(あら)ざるなり」と述べ、
説苑(ぜいえん)は、
「逆命利君(ぎゃくめいりくん)、謂之忠(命に逆らっても君を利す、之を忠と謂う)」と説くのである。
唐代になると、「諌議太夫」という職が制度として設けられていた。その役割は、名前どおり、皇帝を諌めるのである。
古代や中世が現代よりも遅れているとする考えは、これだけでも間違いだと分かる。
もちろん、上に対する批判や諫言の重要性を理解していたのは古代の中国だけではない。
マキアベリは「君主論」において、
「君主がへつらいに対し、身を守ることは難しい。自負心が強く、甘言を好むからである。喜んで忠言をきくことを、事実をもって衆に示すほか、へつらいに対し、身を守る方法はない。・・・君主は民衆の支持を得ていると錯覚してはならない。彼らが『わが君のためには死をも辞さぬ』というのは、死を必要としない時だけである。・・・へつらい者を避けるには賢い側近を選び、その者たちだけに直言させよ」
と注意を喚起している。
日本では、どうであろうか。
「君、君足らずといえども、臣、臣たるべし」などという言葉から、盲目的な服従こそが日本の武士道というイメージが強い。
しかし、これは後世の誤ったイメージである。
人間というものの本性は、少なくとも記録に残っている3000年前から、大きく変化はしていないと思われる。
盲目的な服従などに人が耐えられる筈もなく、また先述したように、そのようなことを求める組織は長続きできない。
「武士道と日本型能力主義」(笠谷和比古)によると、
家康が駿府に隠居した時代、ある幕臣が自分に交付された知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)を、丸めて将軍秀忠に対して投げつけたという事件が起こったらしい。
要は、不満のあらわれである。
彼が期待していた知行と実際に交付された知行とに隔たりがあった訳である。
しかし、いくら不満があったとしても、相手は将軍である。考えられない無礼な行為といえよう。
それでは、彼が即刻に切腹や打ち首という刑罰を下されたかというと、そうではないのである。
秀忠は処分を保留にし、駿府の家康にことの次第を報告して意見を求めたという。
そして、これを聞いた家康は「徳川家は今後も長く続いていくであろう」と殊の外、喜んだらしい。
なぜなら、
1、相手が将軍であろうとも恐れることなく自分の考えを披露できる武士が、徳川家にはいる。
2、こういった武士を、怒りに任せて処分するのではなく冷静な対処をする人間がトップにいる。
ということである。
そして「東照宮御遺訓」において家康は、
「総じて私の真意は、各自が堅持している信条を曲げてまで、私一人に忠節を尽くすべきであるとは少しも思ってはいない。たとえ私の命令に背くようなことになろうとも、各自が自己の信念を踏み外すことがないのであれば、それは私にとっても誠に珍重であると思うのである」
と述べているという。
(この東照宮御遺訓という書は偽書であるという説もある)
現代(といっても古い話だが)になっても、昭和53年に山下俊彦が松下電器の社長に就任した。
当時、山下は取締役26人中25番目という、文字通り平取りであった。それが社長になったのであるから、まさに松下幸之助しか出来なかった大抜擢である。
それでは何故、山下が上の24人を跳び越して社長になれたかという話が、「現代の帝王学」(伊藤肇)に出ている。
松下幸之助が労働問題に関する講演を行ない、それが好評を博したので、出版をしようという議題が役員会にあがったという。
多くの役員が賛成する中、ある一人の役員が大反対を唱えたという。
反対の理由は、松下幸之助の説いた労働問題に関する考え方は理想的で素晴らしいものであったが、現実の松下電器の状況と乖離が激しく、結局、世間を誤解させ世間を裏切るものになるからということであった。
松下幸之助は一瞬嫌な顔をしたが、もっともであるということで、出版は取り止めたという。
この時の役員が山下であった。
コンサルティングをやってきた経験上からも、課長クラスだと会社に対して結構意見を言えるものである。
ところが、部長になると、上を憚ってものが言えなくなってくる。
そして、役員になると、その人事権は完全に社長に握られており、大体がイエスマンになってくる。
松下幸之助は勇気をもって諫言した山下を買ったのである。
そして、天下の松下電器の創業者でありながら、一平取締役からの諫言を受け入れた松下幸之助も、素晴らしいトップであったと言えよう。
ヤマト運輸元社長で宅急便生みの親であり、退任後は福祉活動に尽力した小倉昌男は、その著書「経営学」の中で、こう述べている。
「会社の帰りに、会社の同僚と赤提灯の店に立ち寄り、上司の悪口を言いながら一杯飲むのはどういうわけだろう。会社が嫌いなら、また、上司が嫌いなら、会社のことなど忘れて自宅に帰ればよいものを、わざわざ悪口を言うために赤提灯に立ち寄るのは、会社が嫌いだからだとは思えない。むしろ会社が好きだから、一杯飲みながら批判的な意見を口にするのではないだろうか。
・・・・・・・赤提灯で会社の悪口を言うのは、むしろ会社が好きな証拠ではないか。本当は建設的な態度なのだと私は思う。
・・・・・・・日本人は、潜在的に会社への参画意識があるのだから、それを引き出す努力を経営者が怠ってはいけない」
株式を持ち合っている日本の大企業の社長は、古代中国の君主と比しても遜色ないほどの権力を持っている。
中小企業でも、オーナー企業であれば、やはり同じであろう。
社員は社員として諫言する勇気を持たなければならないだろうが、それ以上に、トップが諫言を聴く度量を持つことが必要である。
もし、その度量がないのであれば、唐代の諌議太夫のような制度を勘案すべきではないかと、私は考えている。