バブルが終わって数年経った頃の話である。
ある企業が、経営不振を立て直すため、取引先から経営者を迎え入れた。
肩書きは専務であったが、実際は経営全般を、その人に任せた。
こういった人事は、うまくいかないケースが多いが、この企業の場合は成功であった。
この専務は、良い意味でエリートであり、能力もさることながら、率先して働き、しかも腰が低く、気さくなタイプであった。
最初は抵抗を示していた社員たちも、段々と打ち解け、専務を中心にモラールも向上して、業績も回復の兆しが現れてきた。
多くの人は、この専務が次期社長であろうと当然のごとくに考え、また、期待もした。
ところが、業績回復が軌道に乗った段階で、この専務は辞意を表明した。
理由は単純であった。
「自分は役割を果たした。自分は元々、外の人間である。この会社にいつまでも居座れば、元からこの会社にいる人のポストを奪ってしまう。会社の将来を考えた時、今辞めることが良い」
慰留は行なわれたが、それほど積極的なものでもなかった。
何故なら、この専務が辞めることによって社長になれる役員がいて、また、空いた専務の席に座れる役員がいたからである。
専務の退任を最も残念に思ったのは、会社の上層部ではなく、中堅以下の一般社員であった。
専務が去った後、その穴を埋める形で役員人事が行なわれ、新しいトップが誕生した。
その人物は、特に低いレベルの人間ではなかった。
ただ、専務がいれば、トップになることは出来なかった人物である。
そして、そのことは本人が一番分かっていた。
だからこそ、彼は、自分の力を周囲に分からせたいと、強く願った。
業績の飛躍的な向上を目指そうということで、新しい方針を次々と打ち出していった。
しかし、それは社内に混乱を招くだけの結果しか生み出さなかった。
結果、上向き始めていた業績は、また、下降線をたどるようになってしまったのである。
会社全体に重苦しい雰囲気が立ち込め、上は下を、下は上を批判するようになって、組織の活力は失われてしまった。
そして、誰しもが「あの専務がいれば」と、心の中で呟いていた。
話は全く変わるが、春秋時代の始め、晋という国の太子に申生という人がいた。
人柄・能力共に優れており、国中の期待を集めていた。
父を献公といったが、この人も勇猛な国主であり、周りの小国を次々と攻め取り、国力を大いに伸張させた。
この献公に愛妾が出来、子供が生まれた。
愛妾の名は驪姫(りき)といい、子の名は奚斉(けいせい)という。
親心なのであろう。
驪姫は、奚斉に晋国の跡目を継がせたいと思うようになった。
そこで、良くある話だが、献公に、太子の申生のことを、あることないこと、讒言するようになった。
そしてついに、献公は申生の廃嫡を決断する。
周りの家臣たちは、申生に対し、驪姫の悪行を明らかにするように助言を行なった。
ところが、申生は言うのである。
父の献公は驪姫を愛しており、驪姫がいなければ食べるものもおいしくなく、夜、ゆっくり休むこともできない。
父の幸せを考えた時、驪姫を排除するようなことはできない、と。
この後、申生は、献公と驪姫によって様々な苛めにあい、最終的には自殺に追い込まれてしまう。
ただ、どんな酷い目にあっても、申生は父献公に対する親孝行だけを考えて、人生を終えた。
ところが、ここに人の世の皮肉がある。
申生があまりにも親孝行であったがために、父である献公が、いかに酷い親であったかということが、歴史に残ってしまった。
前述したように、献公という君主は、申生との関係以外では名君といっていい人物なのである。
しかし、後世の人たちにとって、献公のイメージは、若い女に溺れて晩年を汚した暗愚の君主ということになってしまった。
申生は、親孝行を追及するあまり、歴史上最も有名な親不孝者になってしまった。
話を元に戻すと、自ら身を引いた専務は、まさしく立派である。
周囲が早く辞めてくれないかと思っているにもかかわらず、いつまでも居座り続けようとする経営者が多い中、その清廉さは、素晴らしい。
しかし、そういった善が、かえって悪い結果を引き起こすということが、世の中には間々ある。
間々ではなく、かなり多いかもしれない。
また、ある人が善であったり素晴らしかったりすることが、かえって、周りの悪や能力の無さを際立たせるといったことも、多いようである。
それでは善でない方がいいのか、素晴らしくない方がいいのか、といえば、そうは思えない。
人生における大きな矛盾であり、難問である。
そこで、最近思うのは、よくある、「どうすればうまくいくのか。いい結果が出せるのか」という問いかけ自体が間違っているのではないか、ということである。
結果の良し悪しは、善悪とは関係ない。
物事の成否はある種の天命であり、結局のところ、人は正しいと思ったことをやるしかないのではないか。 宗教に頼らないとすれば、こう割り切ってこそ、人は善をなすことに意味を感じるのではないだろうか、などとも思ったりする。 ]