川添哲夫先生

秋の夜長には、昔のことを思い出す。

川添哲夫は、1971年に、大学生として始めて、全日本剣道選手権に優勝した。

大学生の優勝は、この後も、一人もいない。

翌年、国士舘大学を卒業して郷里に戻り、高知学芸高校で体育の教師となった。

1975年には、二度目の日本一の剣士となった。

そして、1988年、高校の修学旅行を引率中、上海で列車事故に遭遇し、生徒たち27名と共に犠牲となった。38歳の若さであった。

川添が、高知学芸高校に来た1972年の4月、私は高校の2年であり、剣道部の主将であった。

ところが、春休みにある事件を起して、停学中であった。

その後、彼に会うたびに言われた。

「始業式が終って、剣道部の道場に行った。キャプテンは誰だと聞いたら、今、停学中ですと言われた。とんでもない学校に就職したものだと、驚いてしまった」、と。

停学が終わり、始めた会った川添哲夫は、背が高く、色が黒く、俳優にしてもいい位の男前であった。

剣道家らしく、常に姿勢正しく胸を張っていたので、私たちは、「スイ」というあだ名を付けた。

いつも、胸に空気を吸い込んでいるという意味である。

稽古をすると、当たり前のことだが、物凄い強さである。

触ることさえ、出来なかった。

相手は、前年12月に日本一になったばかりである。

片や、高知学芸高校の剣道部は、県内で最下位といってもいい位のレベルであった。

高知学芸は、中高一環のいわゆる進学校であり、スポーツにはそれほどの力を注いでいなかった。

剣道部も、実は私が高校一年になった時に発足したばかりであり、それまでは同好会扱いであった。

県内の大会に行っても、良くて2回戦に行けるかどうかの成績であり、私たちは隅っこの方で、身を小さくしていた。

しかし、子供というものは、指導者や環境で大きく変わる。

川添の薫陶を受け、私たちはメキメキと強くなっていった。

今、思い返せば、日本で一番、つまりは世界で一番の人間を身近に視て、その人間と稽古をする訳である。

そして、出来ないまでも、その人間に何とか勝とうとする。

目指す目標が一気に高くなったということも、大きかったと思う。

川添が剣道部の顧問になることで、今まで日が当たらなかった剣道部が注目されるようになった。

女子マネージャが一度に二人も部に加わることになった。

厳しい練習が続いたが、勢いも出てきた。

最終的に、高校3年になった時には、県の大会で団体優勝を果たし、四国大会でも3位の成績を収めることが出来た。

個人的にも、社会人も出場する高知県剣道選手権「初・二段の部」で、私は2年連続で優勝することが出来た。

私たちは良く言っていた。

「俺達はまるで青春物のテレビドラマみたいだ」

彼のお陰で、私たちは充実した高校生生活を送り、私は大学、社会人と剣道を続けることになった。

川添哲夫が亡くなったのは、私が32歳の時である。

年は6歳しか離れていない。そして、すでに、私は50歳を超えた。

中国の古典では、「死生、命あり」という言葉がよく出てくる。

いつ死ぬかは、寿命であり、人の力ではどうしようもないということである。

また、仁者だからといって必ず信じられるとは限らないし、忠者だからといって必ず報いられるものでもないし、知者だからといって必ずしも用いられるとは限らない、と言う。

そして、「遇不遇は時にあり」、とも言う。

人生で成功するかどうかは運である、というのである。

しかし、それであっても、君子は道を修めて徳をなすのだ、と言う。

成功不成功が時の運であるのに、何故、人はより良く生きることが大事なのか。

それは、結局、人生の目的は、人のために役立つということだからであろう。

長生きしたからといって、豊かになったからといって、高い地位に就いたからといって、それだけは立派な人生を送ったとはいえない。

社会のために役立ったのか、人のために役立ったのか、それこそが人生の目的であり、人生を評価する尺度なのだろう、と思う。

彼に会うたびによく言われた言葉が、もう一つある。

「お前は、どこに行っても生きていける奴だ」

確かに生きてはいける。

問題は、良く生きることが出来るかどうか、である。

生きることは手段であり、目的ではない。

死後、家族以外の人間で墓参りに来てくれる者が三人いれば、その人の人生には意味がある、という話を聞いたことがある。

特に、墓参りに拘る必要はないと思う。

ただ、誰かの心の中に生きているということは大事かもしれない。

それが、人として不朽ということであろう。

川添哲夫の短い生涯を思うとき、自分自身の人生を考えてしまう。 私や、私と共に彼の指導を受けた者達が彼を思うように、私の死後、私を思い出す者がいるのであろうか、と。