例えば、会社の同僚に借金をする。
「申し訳ない。1万円貸して貰えないだろうか。今日中に銀行に行って、明日には返すから」
次の日になって、その金を返さないとしたなら、その同僚はどうするだろう。
多分、「昨日の1万円は」と催促を迫るであろう。
人によっては、1日くらいは待ってくれるかもしれない。
しかし、どこかの時点で、催促されることは間違いない。
1万円の金を返すか返さないかということは、普通の人にとっては「大きな約束」である。
「大きな約束」は、こちらが忘れていようが、端から守る気がなかろうが、守らざるを得ない状況がやってくる。
この反対に、「小さな約束」というものがある。
例えば、同僚に自動販売機でコーヒーを買いたいが、細かいお金がない。そこで、
「100円貸してくれない。後ですぐに返すから」
といった場合である。
この100円を返さなかった場合、同僚はしつこく返せと言ってくるだろうか。
これも人にはよるが、多くは、言わないのではないか。
100円くらいで、一々言うのも気が引けるという気持ちになるからである。
そして、いつしか同僚も、100円貸したなどということは、忘れてしまうだろう。
ただ、100円貸して返して貰えなかったという具体的な事実は忘れても、心の片隅に、あいつは約束を守らない信用できない人間だという、微かな不信感は残るのではあるまいか。
約束を守ることは大事である、ということは誰しも分かっていることである。
しかし、私達は、約束にも優先順位を付けている。
大きな約束は守ろうとし、小さな約束はそれほどでもない。
小さな約束は、そもそも忘れてしまうことも多いであろう。
忘れてしまえば、約束を破ったという自覚さえ、そこには存在しない。
私たちは、思っている。
「小さい約束などいいではないか。私はより重要な大きな約束を守るのだ」
先ほどの例でいえば、1万円の約束を守ることの方が、100円の約束を守ることよりも大事だろうということである。
しかし、立場を変えれば、評価も変る。
「100円の約束を守れないような人間が、1万円の約束を守れるのだろうか」と。
いわゆる偉い人たちで、
「今度、飯でも食いに行こう」
などと、気軽に声をかける人がいる。結構、こういった人たちは多い。
しかし、実際に声がかかることは、まずない。
この場合、声をかけられた方から、「あの約束はどうなりましたか」と訊ねることはできない。
「あぁ、私は軽く見られているんだ」と、いくばくかの恨みを抱きながら、諦めるだけである。
こういった経験が積み重なると、期待して傷つくことを恐れるようになる。
声をかけられても、それは所詮、社交辞令であると割り切るだけのことである。
田中角栄は、「今度、飯でも食いに行こう」と声をかけた場合は、必ず、その約束を守ったという。
そして、若手の官僚たちは、このことにまず感動を覚えたらしい。
社交辞令と思っていたことが本当のことになったのである。
「この人は、私のことを尊重してくれているんだ」と、心を震わしたという。
田中角栄の政治力の根源は、こういった人心掌握であり、だからこそ、刑事被告人となってからも、政界に君臨できたのである。
人に対して「小さな約束」を守ることは、その人を尊重しているという証しである。
また、信頼というものは、「大きな約束」以上に、「小さな約束」を反故にすることによって崩れるものなのである。
そして、恐ろしいことは、信頼を失っていることを、本人が気づかないということである。
全ての約束を守ろうとすることが大事なことであることは、言うまでもない。 しかし、もし約束に優先順位を付けるのであれば、大きい約束よりも小さい約束を重視することの方が、大切かもしれない。