分かっているようで分かっていないこと

本当に大切なものは何か・・・。何が重要で、何が重要ではないのか・・・。

分かっているようで、分かっていないことかもしれない。

特に私のような凡人の場合、その場の状況に流されて、ついつい間違った判断をしてしまうことが多い。

春秋時代、子文(しぶん)という人がいた。

この人は、当時の大国であった楚の総理大臣であったにもかかわらず、その日暮らしに近いほどの貧乏であった。

楚王は、そのあまりの貧しさを哀れんで、子文が参内する度に、干し肉と乾し飯を与えた。

そして、このことは、楚の国の総理大臣に対する慣例となったという。

ある人が、

「何故、富貴を求めないのですか?」

と子文に訊くと、彼は、こう答えた。

「政治家は、国民を愛し守ることが仕事です。

今、貧しい国民が多い中で、私が富を得ようとすることは、国民からの搾取になります。

そうなれば、あっという間に、私は死んでしまうことでしょう。

私は富を求めないのではなく、死から逃れようとしているのです」

同じく春秋時代、魯の国に、公孫儀(こうそんぎ、『史記列伝』では公儀休)という人がいた。

彼も、魯の大臣であった。

公孫儀は、魚を好んだという。

それを知った多くの人が、彼に魚を献上した。

しかし、彼は魚を受け取らなかった。

魚が好きなのに、何故、魚を受け取らないのかと訊ねられた公孫儀は、こう答えた。

「もし、魚を受け取れば、くれた人に便宜を図らなければならなくなる。

そうなると、場合によっては法を枉(ま)げることにもなる。

法を枉(ま)げるようになると、今の地位を失うかもしれない。

そうなれば、誰が私に魚をくれるであろうか。

別に人から魚を貰わなくても、私は今のままで充分、魚を買い求めることが出来る」

人生では、ちょっとした判断ミスや気の緩みが、大きな失敗を招くことがある。

小金に目がくらんで、賄賂を貰ったり、

これ位は見つからないだろうと、横領を図ったり、

ちょっとした気晴らしと思い、麻薬や覚醒剤に手を染めたり、

金儲けと思ってギャンブルにはまり、返ってサラ金に手を出したり、といったことである。

そして、後から考えれば大して重要でもないことで、本当に大事な何かを失ってしまう。

まさしく、後悔先に立たず、である。

自分にとって何が大切なことなのか、多くの人は分かっている筈である。

にもかかわらず、人は、何故、このような過ちを繰り返すのだろうか・・・。

また、古の賢人と、私のような凡俗の違いはどこにあるのだろうか・・・。

考えれば考えるほど、分かっているようで分からないことは多い。