部下や同僚の批判を口にする人がいる。
「あいつには困ってしまう」などと愚痴る人がいる。
もちろん、聴いていて当っているなと、思うこともある。
そして、そうは思えない場合もある。
思えない場合の方が、多いように感じる。
批判している側とされている側、そんなに変わりはないのではないか。
時には、批判の対象者の方が優れているのではないか、と感じる。
孔子のこの言葉は、普通に読めば大した話ではない。
特に、前半部分は、至極当り前の話である。
大事なのは後半である。
自分から見て劣っていると思ったらならば、それは自分と同等だということである。
だから、改めて自分を反省する必要が出てくるのである。
もし、自分と同じレベルかなと思う人であれば、その人は、自分よりもかなり上等である。
そして、この人は凄いと思った場合は、とてつもなく上等の人物だということになる。
最近はロクな人物がいないな、などと思うことが多いが、それは結局、自分程度の人ばかりということである。
他人の愚かさを愚痴る暇があるなら、自分の愚かさを心配した方が良さそうである。
(現代語訳)
自分よりも優れた人に会った時には、頑張って追いつこうと思うし、劣った人に会った時には、自分も同じように愚かではなかろうかと、反省する。
出典 (明治書院)新釈漢文大系1『論語』吉田賢抗著 98頁
里仁第四
子曰、見賢思齊焉、見不賢而内自省也。
子曰く、賢を見ては齊(ひとし)からんことを思ひ、不賢を見ては内に自ら省(かへりみ)るなり。