『荀子』知ったかぶりの害

論語に、

子曰く、道に聽(き)きて塗(みち)に説くは、德(とく)を之(こ)れ棄(す)つるなり。

子曰、道聽而塗説、德之棄也「陽貨第十七」(新釈漢文大系390頁)

という言葉がある。

道聴塗説(どうちょうとせつ)という四字熟語の元になっている文章である。

簡単に学んで、それをまた簡単に吹聴するな、ということである。

違う表現をすれば、出来もしないのに知ったかぶりするな、ということであろう。

僕なんか知ったかぶりが大好きだから、この言葉は、あまり好きではなかった。

別に他人に迷惑をかける訳でもないし、少しばかりの知ったかぶりは許してほしいなというのが、正直な気持ちであった。

しかし、荀子によれば、これは許し難きことである。

学問は、本来、人としての行いを正すものである。

ところが、耳から入って口から出るといった「知ったかぶり」では、学問の目的から外れてしまう。

何故なら、耳と口の間は、10センチ余りしかないからである。

身体の中の10センチ余りを通過させただけで、学問が心に沁み込み、身体全体に行き渡って行いが正されることは有りえない。

つまり、他人に迷惑をかけるとかかけないとかいった問題ではなく、道聴塗説は、学問の目的から逸脱している、ということである。

だから、孔子は、「徳を棄てる行いだ」と言ったのであろう。

ここまで諭されると、さすがに、反省の気持ちが芽生えてくる。

出典(明治書院)新釈漢文大系5『荀子 上』藤井専英著 33頁

巻第一 勧學篇第一

君子之學也、入乎耳、箸乎心、布乎四體、形乎動静。端而言、蝡而動、一可以爲法則。小人之學也、入乎耳、出乎口。口耳之閒、則四寸、曷足以美七尺之軀哉。

不問而告、謂之傲、問一而告二、謂之囋。傲囋非也、君子如響矣。

君子の學は、耳より入りて、心に箸(つ)き、四體(したい)に布(し)きて、動静に形(あら)はる。

端(ぜん)にして言ひ、蝡(ぜん)にして動くも、一に以て法則と爲す可(べ)し。

小人の學は、耳より入りて、口より出づ。

口耳(こうじ)の閒(かん)は、則ち四寸(しすん)なれば、曷(いづく)んぞ以て七尺(しちせき)の軀(く)を美とするに足らんや。

問はれずして告ぐる、之を傲(がう)と謂ひ、一を問はれて二を告ぐる、之を囋(さつ)と謂ふ。 傲囋(がうさつ、さわがしくてくどい)は非なり、君子は響(ひびき)の如し。