性善説といえば孟子で、性悪説といえば荀子である。
しかし、荀子が謂っていることは、持って生まれてきた物よりも、その後の環境や修練が大事だということである。
荀子は言う。
一日中、一人で一生懸命考えたが、それは、先生からほんの少し教えて貰ったことに及ばなかった。
また、爪先立って遠くを見たことがあったが、それは、高い所に登って見ることには及ばなかった。
高い所から手を振れば、手が長くなった訳ではないのに、遠い人からも見ることができる。
同じように、風向きに従って声を出せば、声が大きくなった訳ではないのに、はっきりと聞こえるようになる。
車を使えば、足の力が増すわけではないが、遠くまで行くことができる。
船を使えば、自分の能力とは関係なく河を渡ることができる。
君子は、生まれながら君子なのではない。
外部の力を借りて、自らを作り上げることによって、君子となるのである、と。
出典 (明治書院)新釈漢文大系 『荀子 上』 19頁
勸學篇第一
吾嘗終日而思矣、不如須臾之所學也。
吾嘗跂而望矣、不如登高之博見也。
登高而招、臂非加長也、而見者遠。
順風而呼、聲非加疾也、而聞者彰。
假輿馬者、非利足也、而致千里。
假舟楫者、非能水也、而絶江河。
君子生非異也、善假於物也。
吾、嘗て終日にして思へども、須臾(しゅゆ)の學ぶ所に如かざるなり。
吾、嘗て跂(つまだ)ちて望めども、高きに登るの博く見ゆるに如かざるなり。
高きに登りて招けば、臂(ひぢ)長を加ふるに非ざるなり、而るに見ゆる者遠し。
風に順ひて呼べば、聲(こゑ)疾を加ふるに非ざるなり、而るに聞ゆる者彰(あきら)かなり。
輿馬(よば)を假(か)る者は、足を利するに非ざるなり、而るに千里を致す。
舟楫(しうしふ)を假る者は、水に能(た)ふるに非ざるなり、而るに江河を絶す。 君子は生(せい)異なるに非ざるなり、善く物に假(か)ればなり。