若いころによくあった。
僕が何らかの主張をする。そこには反対する人間がいる。
お互いに自分が正しいと信じていればいるほど、歩み寄りは難しい。
そこに、第三者が現れて、
「それは西森さんが違うでしょう」とか言われて、反対者の意見が採用されてしまう。
何故そうなるかといえば、第三者が優れているからではなく、争いの当事者ではないからである。
自分から先を切って発言をせずに、最後の最後になって言い出すのは卑怯者でないかと、よく思ったものである。
しかし、自分の主張が正しいと考えるのであれば、争うことは決して優れた方策ではない。
若いころの僕は、主張することが好きで、戦うことが好きだっただけかもしれない。
他人を言い負かすことは目的ではない。
自分が正しいと考えていることを実現することこそが、本来の目的である。
こう考えると、争いの当事者になることは、得策とは言い難いのである。
積極的に発言することも勇気だが、発言しないことも勇気なのであろう。
ただ、会議などでは何も言わずに、飲みながら後輩・部下を相手に文句を垂れるというのは、論外である。
出典(明治書院)『淮南子 中』楠山春樹著802頁
巻十四 詮言訓
三人同舎、二人相争、争者各自以爲直、不能相聽、一人雖愚、必從旁而決之。非以智、以不争也。(両人相鬭、一羸在側、助一人則勝、救一人則免、鬭者雖強、必制一羸、非以勇也、以不鬭也) 三人舎を同じくし、二人相争い、争う者、各々自ら直なりと以爲(おも)ひ、相聽(あいき)くこと能はざらんに、一人愚なりと雖も、必ず旁從(かたはらよ)りして之を決す。智なるを以てに非ず、争はざるを以てなり。