『淮南子』信奉理論と実践理論

ためになる話や役に立つ話を聞けば、誰でも喜ぶし、納得する。

例えば、管理職研修などで、マネジメントやマーケティングの理論を教わって、反発する人はまずいない。

ところが、いくら役に立つことを教わっても、それを実際に活かすかという、これがそうではない。

また、人の立派な行動を見聞きして、それを称賛しない人や、そういった行動に感動を覚えない人は、滅多にいるものではない。

にもかかわらず、立派な行動を見聞きしても、自分がその通りにやるかというと、これもそうではない。

自分が正しいと考えていること(信奉理論)と、実際に行動する際の判断基準(実践理論)は違う、という話である。

現代のマネジメント学者が言っていることは、二千年前の古典に書いてある。

しかし、何故なんだろう。

よく、押しつけやヤラセはいけないという。

自分が納得し、自分で決めることが大事だという。

しかし、自分自身が納得し、自分自身が決めたことでも、人はやろうとしない。

もしくは、やっても長続きしない。

早起きして散歩することは良いことだとわかっていても、長続きしない。

散歩をすると、爽やかな気持ちになり、身体の調子も良くなることが分かっているのに、長続きしない。

深酒をいけないことだと分かっていても、やってしまう。

二日酔いに苦しんで、もう絶対にやめようと誓っても、やってしまう。

特別な一部の人を除いて、多くの、僕のような人間は、一時の快楽にしか喜びを感じない生き物なのだろうか。

しかし、また、心の奥底では、一時の快楽に身をまかすことはいけないことだと分かっているのも、確かだろう。

いけないということが分かっているということは、人の本性として、善を求めているということになる。

この心の奥底にある善に対する渇望を育て、いかにして行動として表面化するか、これが学問であり、本来の教育であろう。

人は罪も犯すし、間違いも起こす。

しかしそれを自覚する心がある限りは、人として成長できる筈である。

実践理論だけではなく、信奉理論を持っているということこそ、人の可能性の証明に他ならないのではないか。

出典 (明治書院)新釈漢文大系54『淮南子 上』楠山春樹著 P70

原道訓

聽善言便計、雖愚者知説之、稱至德高行、雖不肖者、知慕之。

説之者衆、而用之者鮮。慕之者多、而行之者寡。

善言便計を聽けば、愚者といえども之を説(よろこ)ぶを知り、至徳高行を稱(しょう)すれば、不肖者といえども、之を慕ふを知る。

之を説(よろこ)ぶ者は衆(おお)くして、之を用いる者は鮮(すくな)し。 之を慕ふ者は多くして、之を行なう者は寡(すくな)し。