『孟子』誰かを助けるのに理由がいるかい?

TVゲームの「ファイナルファンタジー」の中で出てくるセリフらしい。

つい最近まで、僕は知らなかったが、かなり有名らしい。

実に良い言葉だと思う。

だから、ゲームやアニメ・漫画は油断できない。変なビジネス書や人生訓よりも奥が深い場合がある。

この言葉は、孟子の言った惻隠の心そのものであろう。

孟子はいう、幼い子供が不意に井戸に落ちたのを見れば、誰であっても驚きかわいそうだと思い、助けようとするだろう。

これは、助けることによって、幼い子供の父母に取り入ろうとか、世間から良い評判を得ようとか、またまた、助けないことによって、悪評が立つことを怖れるからではないだろう。

ただただ、困っている誰かを助けたいという、人の持っている根源的な性情なのだ、と。

出典 新釈漢文大系 『孟子』110頁公孫丑章句

所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隠之心。

非所以内交於孺子之父母也。非所以要譽於鄕黨朋友。非惡其聲而然也。

由是觀之、無惻隠之心、非人也。無羞惡之心、非人也。無辭讓之心、非人也。無是非之心、非人也。

人、皆、人に忍びざるの心ありという所以(ゆえん)のものは、今、人、乍(たちまち)孺子(じゅし)の將(まさ)に井(せい)に入らんとするを見れば、皆、怵惕(じゅつてき)惻隠(そくいん)の心あり。

交(まじわり)を孺子の父母に内(い)るる所以に非(あら)ざるなり。

譽(ほまれ)を鄕黨(きょうとう)朋友に要(もと)むる所以に非(あら)ざるなり。

その聲(こえ)を惡(にく)んで然(しか)るに非(あら)ざるなり。

是に由りて之を觀(み)れば、惻隠(そくいん)の心無きは、人に非(あら)ざるなり。

羞惡(しゅうお)の心無きは、人に非(あら)ざるなり。

辭讓(じじょう)の心無きは、人に非(あら)ざるなり。

是非の心無きは、人に非(あら)ざるなり。