『孟子』に、
「古者(いにしえ)は子を易えて之を教う」
という言葉がある。
つまり、親が直接に子供を教育することは、良くないというのである。
何故なら、教えても子供がきちんと出来ないと、親もつい腹を立ててしまう。子供は子供で、お父さんは偉そうなことを言うけど、自分はやらないじゃないかと反発する。
こうなると、親と子の間に溝が出来てしまい、親子がいがみ合う結果になる。
この、親子がいがみ合う状態ほど、不幸なことはないというのである。
昨今、若い世代のモラルの低下に関して、家庭における教育の問題だという声を聞く。
しかし、二千年以上も前に、家庭内教育はそもそも難しいと、指摘されていた訳である。
「子供が箸を使えないのは親が使えないからだ」と言われるように、子は親の背中を見て育つものだから、親の生き方や姿勢こそが大事だ、という話もある。
しかし、これも歴史的にみると、聖人君子といわれた人格者にろくでもない子供がいた例は、枚挙にいとまが無い。
躾やモラルといった部分の教育は、親が行なうよりも他人、現代でいえば、学校で行なう方が良いのだと思う。
特に、小学校低学年の子供にとっては、先生は絶対的な存在である。私の子供もそうであったが、親の言うこと以上に、先生に教えられたことを信じていた。
そういった尊敬される存在に教えて貰った方が、効果は期待できるだろう。
こう考えると、昨今、モラル等が低下してきたのは、家庭内教育ではなく、敗戦後の学校教育が、その原因だということである。
だから、モラルが低下しているのは若い世代だけではない。
いつも感じているが、70歳よりも下の世代は、ほぼ同じようなものである。
そこで、昨日の「韓国ドラマ イ・サン」である。
主人公の子供が経書を学んでいるように、かつての日本でも、「修身」という授業で東洋の叡智を学んでいた。
『孟子』を暗誦しろとまではいわなくても、中国の古典には様々な知恵が溢れており、興味深い逸話も多い。
教え方に工夫は必要だが、子供の時代に、それらを学ぶことは、今の時代、特に大事なことであろう。
ただ、ここ数年、中国に対するイメージはあまり良いものではない。
中国の古典なんて、と思う人もいるかもしれない。
しかし、私は、思う。
『論語』や『孟子』、『春秋左氏伝』、『十八史略』などは、単に中国の古典というよりも日本も含めた東洋の古典である。
そして、日本人が過去2000年間、それらの古典を学ぶことによって人格を修養してきたことは、間違いのない事実である。
さらに、「文化は辺境に残る」と言われるように、近現代の中国よりも、日本にこそ、東洋の叡智は受け継がれてきたのである。
特に幕末維新、勤皇の志士たちの多くは、まさに中国古典に描かれた士大夫の理想像を体現している。
(蛇足だが、維新という言葉も、「殷」を滅ぼした理想的国家とされる「周」という国を形容した、中国の古典からの引用である。そしてもちろん、蛇足という言葉もそうである)
明治期以降、日本人が中国人に対して、ある種の軽侮の念を持つようになったのは、文献を通して思い描いていた古代の中国人と、近代の中国人の違いが、その大きな原因の一つではないかと、私は想像している。
ただ、日本に残った東洋の叡智も、今や滅びつつある。
敗戦以後の60年間、それらの思想は古い、軍国主義的だということで、否定してきたからである。
このままで30年経てば、完全に消え去るであろう。
現代の学校教育を変革する力は、当然にことながら、私にはない。
しかし、今の日本人に、少しでも東洋の叡智を理解して貰いたいとは、ずっと考えていた。
そして、自分自身が学び考えながらブログの記事を書くことは、私の本業である、企業や各種組織における経営者・管理職の研修内容の改善にもつながるだろうとも、期待をしている。
出典 (明治書院)新釈漢文大系4『孟子』内野熊一郎著 266頁
離婁章句上
公孫丑曰、君子之不敎子、何也。孟子曰、勢不行也。敎者必以正。以正不行、繼之以怒。繼之以怒、則反夷矣。夫子敎我以正、夫子未出於正也。則是父子相夷。父子相夷、則惡矣。古者易子而敎之。父子之閒不責善。責善則離。離則不祥莫大焉。
公孫丑(こうそんちう、孟子の弟子)曰く、君子の子を敎へざるは、何ぞや、と。
孟子曰く、勢(いきほひ)行はれざればなり。
敎ふる者は必ず正を以てす。正を以てして行はれざれば、之に繼(つ)ぐに怒を以てす。之を繼(つ)ぐに怒を以てすれば、則ち反(かへ)て夷(そこな)ふ。
夫子、我を敎ふるに正を以てする、夫子、未だ正に出でざるなり、と。
則ち是れ父子、相夷(あひそこな)ふなり。父子、相夷(あいそこな)へば、則ち惡(あ)し。
古(いにしへ)は子を易へて之を敎ふ。父子の閒(あいだ)は善を責めず。善を責むれば則ち離る。離るれば則ち、不祥(ふしょう)焉(これ)より大なるは莫し、と。