「良いとは思うが、すぐには出来ない」
「すぐに全部はむりだから、少しづつやっていこう」
よく使われる言葉である。僕も使ってきた。
逃げ口上で使う場合もあるが、本気の場合もある。
良いとおもっているなら、何故、すぐにやらないのだろうか。
何故、少しづつではなく、全部やらないのだろうか。
結局のところ、本当に良いとは思ってないのだろうか。
なんとなく面倒くさいからだろうか。
こういった人の弱さに対しての、孟子の言葉は痛烈である。
毎日、隣の家の鶏を盗んでいる奴がいる。
そいつに、それは正しい行いではないと注意したら、
「分かった。しかし、すぐには止めることは出来ないから、鶏を盗むのは毎月一羽に減らすことにする。来年からは盗まないようにする」
と答えたという。
間違いをしていると分かったならば、すぐに間違いを止めるべきである。
良いと思いながら、それをすぐに実行しないのは、この泥棒と同じではないか。
返す言葉がない論理である。
しかし、それでも、なかなか善を行うことを急げない自分がいる。
しかし、また、これではいけないと思う自分がいる。
人生は、結局のところ、この二人の自分の闘いということなのか。
出典(明治書院)新釈漢文大系4『孟子』内野熊一郎著 222頁
滕文公章句下
孟子曰、今有人日攘其鄰之雞者、或告之曰、是非君子之道。曰、請損之、月攘一雞、以待來年、然後已。如知其非義、斯速已矣。何待來年。 孟子曰く、今、人、日々に其の鄰(となり)の雞(にはとり)を攘(ぬす)む者有らんに、或ひと之に告げて曰く、是れ君子の道に非らず、と。曰く、請ふ之を損して、月に一雞(いつけい)を攘(ぬす)み、以て來年を待ち、然(しか)る後に已(や)めん、と。如(も)し其の義に非ざるを知らば、斯(ここ)に速かに已(や)めんのみ。何ぞ來年を待たんや、と。