よく遅刻をする部下がいたとする。
上司としては、当然、注意しなければならない。
しかし、上司自身も、よく遅刻をしていた場合、どうすればいいのだろう。
全く本を読まない子がいたとする。
将来のことを考え、親としては本を読みなさいと注意することは必要である。
しかし、親自身全く本を読まず、テレビばかり観ているといった場合、どうすればいいのだろう。
こういったことは、真面目なタイプほど、悩むものである。
自分が出来ていないことを、人に要求していいものだろうか。
部下の一人が、業績改善のアイデアを提案してきたとする。
ところが、その部下自身の成績はとんでもなく低いとする。
自分の頭の上の蝿を追えないような人間の意見が、果たして役に立つのであろうか。
聞く必要があるのだろうか。
不死の方法を知っているという者がいた、という話がある。
燕の国主が、その方法を知りたいものだと、使者を遣わした。
ところが、その使者の出立が遅れたため、不死の方法を知っているという者が死んでしまった。
燕の国主は怒り、使者を殺そうとした。
すると、ある家臣が、
「不死の術を知るといいながら、自分が死んでしまった。それは術が間違っているということです。間違った術を得ても仕方がないでしょう」
と言って使者をとりなし、燕の国主は殺すことを思いとどまった。
これを聞いた、胡子という人は、「燕の国主と家臣は間違っている」として、こう言った。
「人には、方法を知っていても出来ない者もいれば、うまく出来るのだが、何故出来るのかの方法を知らない人間もいる」
そして、衛の国にいたという算術の名人の話をした。
その算術の名人は、死に臨んで息子を呼び、自分の秘訣を授けた。
ところが、この息子は秘訣を分かっても、算術を巧みに行なうことが出来なかった。
ある男が、この算術の秘訣のことを聞き知った。
息子の所へ行って、教えてもらった。
そして、その秘訣を用いて算術を行なうと、その巧みなことは死んだ名人と変わらなかった、という。
当たり前だが、知ると出来るは、違う。
そして、大事なことは、自分が出来なくても、他人にとって役立つことはある、ということだろう、
であるなら、自分が出来ていないことでも、部下の過ちは正す必要があるし、大切だと思うことは、子供に教えなければならない。
そして、パフォーマンスが低くい部下であっても、その意見や提案には耳を傾ける必要がある。
彼や彼女には出来ないことであっても、他には充分に役立つことかもしれないからである。
蛇足だが、この記事は、知っていることを自分が出来るように努力することを、否定している訳ではない。 {n._d=new Date(