人は、何らかの現象を見たとき、その理由を考える生き物である。
どうして、そうなっているのだろうと考え、解釈し、納得する。
例えば、ある金持ちを見た時、きっと一生懸命働いたから金持ちなんだろう、と考える。
人によっては、きっと悪いことをしたから金持ちなんだ、と考えるかもしれない。
それぞれに違った理由を思いつくのは、人の持っている人生に対する仮説や法則といったものが、違うからだろう。
良く事実を見なさいと言われるが、人にとって大事なことは、事実ではなく事実に対する解釈である。
『列子』説符篇に、こういった寓話がある。
斧を無くした人がいた。
隣の家の子が盗んだのではないかと、疑った。
その子の行動を視てみると、いかにも怪しく、斧を盗んだ人間の行動である。
顔の表情も、おどおどしているようであり、斧を盗んだ人間の表情である。
言葉や喋り方も、斧を盗んだ人間の喋り方である。
とにかく、良く視れば視るほど、その子が斧を盗んだとしか思えないのである。
ところがある日、盗まれた筈の斧が出てきた。
その後、隣の子を見ても、全く斧を盗むような人間には思えなかった、という。
同じ事実を視ても解釈の仕方によって、全く違うものに見えてしまう。
人は、自分の人生は自分が選択しているというが、それは、こういったことを指すのであろう。
同じようなことを経験しても、同じような人生を送っても、それを幸せであったと感じるのか、不幸であったと感じるのか、それはその人の解釈次第である。
こう考えると、幸せであろうとするならば、大切なことは事実としての人生よりも、自分自身の持っている考え方を変えることの方が大事なのかもしれない。
久しぶりに三日間ホテル暮らしをし、過酷な(これも解釈の問題ではあるが)仕事をやった所為か、少しだけ人生というものを考えてみた。 「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり」、ということであろうか。